コミュニケーション能力ってなんじゃらホイ
ようやく学校を無事卒業して社会復帰を果たすおっさん(36)です。
思い起こせばこの2年色々ありました。
最初に授業内容で驚いたのは「コミュニケーション技術」の教科があることです。
「コミュニケーション技術?普通に生活してれば自然と身に付くもんでしょ??」と
当時のおっさんは考えていました。しかし、巷ではコミュニケーションのあり方について
迷える人が多くいるらしく、書籍やインターネットなど多くの意見が交わされています。
今日は「コミュニケーション技術」について持論を述べたいと思う。
ある日、学校の休憩時間に現代人のコミュケーション能力が不足している原因として、
メールやLINEなど電子ツールの発達のせいではないか?と話が出たことがある。
「リアルな関わりが不足してコミュニケーション力が磨かれない」が言い分としてあがった。
しかし、これでは「メールやLINEなど電子ツールを使わなければコミュニケーション力があがる
のか?」と極論に陥るだけと考える。
ひとつの要因としては考えれるが具体性に乏しいと思われる。
おっさんの考えるコミュニケーション能力不足の原因について「消極的」を挙げたい。
「消極的」である事で何が起こるのか紐解いて行こう。
著書「察しない男 説明しない女」で有名な心理カウンセラー五百田達成氏のブログ
『「受け身」時代だからこそ積極性が大事』の記事にて、この様なアドバイスをしています。
『「受け身=Please」ではなく「一緒に=Let's」を心がけてみましょう』
同氏は積極的に「自ら企画し声をかける」ことの大切さを述べているが、積極的が
難しいのならば、せめて「一緒に=Let's」を心がけることが大切だという。
「受け身=Please」と「一緒に=Let's」の違いをマズローの欲求段階説にあてはめるとわかりやすい。
同氏のブログにある。『ある中堅社員が飲み会に参加した若手社員に対して怒ってい
ました。なぜなら翌日のお礼のメールの最後が「また誘ってください」と締めくくられて
いたから。そこは「今度は僕が企画しますね」だろう』の一節を例に取り上げよう。
言うまでもなく、「また誘ってください」とは「受け身」であり、「今度は僕が企画しますね」が「一緒に」です。
「今度は僕が企画しますね」=「一緒に=Let's」の場合には、共感と尊重を示すことになり、
マズローで言うところの「親和欲求」と「承認欲求」を満たし、自身も「あなたと飲んで楽しい。
私達は仲間です。」と意思表示する事になります。
逆に「また誘ってください」=「受け身=Please」の場合には、どちらも意思表示した事には
ならずに、むしろ「また誘ってください」という体のいいお断りとも取られる可能性もあります。
本人にその気がなくても「消極的」である事で、周囲の受ける意味は大きく変化することがあるのです。
実はこのままの事例が、おっさんの友人間で発生したことがあります。
遊びの提案や企画をまったくしない友人Mに対して、他の友人達が「おい!M!今度
お前が飲み会企画しろ!!」と迫ったことがあります。
「俺は企画とか無理!」と突っぱねた友人Mでしたが、結局無理やりに飲み会を企画する事に
なりました。最後まで「企画とかマジ無理」と愚痴をこぼしていた友人Mでしたが、企画内容が
ウンヌンの問題では無いことは、ここまで読んで頂いた方にはわかるのではないでしょうか?
他の友人達は不安だったのです。
「Mは俺達と居て本当に楽しんでいるのか?」「Mは俺達を友人と思ってくれているのか?」
以前、ブログにておっさんの20年〜31年の付き合いになる友人達を紹介しました。
この長い付き合いには、「俺たち仲間だな!」(承認欲求)「一緒に楽しもうぜ!」(親和欲求)が、
どちらか一方的に行われているのではなく、「お前達とは仲間だ!」「お前達といて楽しい!」と
表して双方向に行われているからだと思います。
もし、これが「消極的」だったらどうなっていたのでしょうか?友人達もそうですが、ありとあらゆる
周囲から自身の孤立を招く事態になり、交流機会の喪失からコミュニケーション能力の成長に
鈍化や停滞、退化などを招くことになると考えます。
イベントの企画力とか、多くの人に声をかけて人を集めるとかハードルの高い意味での
「積極的」ではなくても、広い意味でとらえた時に自分に出来る「積極性」を示して双方向の
効果を得る事は大切だと思います。
「人とうまく話せない」「自分の主張ができない」「友達ができない」などは
結果にすぎないとおっさんは考えます。問題はもっと別のところだと思います。
今回はその一要因と考えた「消極的」について述べてみました。


